寒風の吹きすさぶ岡山駅のホームで,中学校の制服に身を包んで,倉敷へ向かう電車を待っていたあの情景は,もう40年も前だろうか。
4月からの新幹線の岡山駅までの延長の前,高島屋も一番街も無かった頃に,附属高校の受験に向かっていた晩冬の冷たさが,今でも時々浮かび上がってくる。
丹波の山奥である郷里の京都府福知山市は典型的な盆地の地形で,ぐるりの山々に冬の日差しは,漸く午前10時くらいになって裸になった街路樹をそれでも暖かく包み込むように照らし始めることを考えると,そして冬場に幾度かは雪道を踏みしめて中学校に通う道筋を辿っていたことを思い出すと,瀬戸内という響きだけで,なんだか明るい未来につながっている様な気分の高揚に包まれていた記憶が呼び覚まされる。
生坂の地で高校生活を終えて大学への入学。
それでも当時は大学寮も2年まで生坂にあったので,松島の地も生活の主体ではなく,それは3年生への進級でアパート住まいを始めた頃からの物語となった。
郷里で入院の無い内科医院を開業していた父が託した後継者として丹波に戻るという想いのままに,倉敷にやってきて,それでもギリギリ進級さえすればいいのだろうと,学業そっちのけで趣味に打ち込んで,まるで褒められた生徒ではなかった日々の生活のどこかに,しばらくは大学附属病院で研修などをした後には,あの曇りがちに灰白色の背景の残像を刻み込んでいる郷里に戻る将来を,どこか諦念に似た感覚で捉えていたこともあったのだろうか。
若気の至りを逆手にとって,無意識の中で弾けまくっていた時代は,懐かしくもあり,恥ずかしくもあり,それでも何かに打ち込んでみた気持ちの動きの記憶は,仕事についてからの集中と努力に繋がってくれたのかも知れないというのは自己弁護でしかないであろう。
そんな父も2008年の7月の終わりに,ぎらつく猛暑の陽光の中,彼岸へと旅立ち,残された母も倉敷に転居,自宅兼診療所も解体売却を経て,加えて菩提寺の永代供養塔にお骨も納まってしまった今は,自分自身も,それでも血液内科などを専攻していた頃には,どこかでまた地域医療の現場に戻れる余地を残しているゆとりを持っていた様でもあったが,血液腫瘍研究の留学からの帰国に,母校であることを理由に,衛生学という基礎医学あるいは川崎医科大学では応用医学という範疇に分けられる分野に在籍することになって,それでも所属長を拝命はしているものの,結局は,父の希望を叶えないままに徒に時間を浪費し,身勝手なままの生活を繰り返しているのかと思うと,これまでいくつかあった人生の岐路に立ち戻りたい誘惑に誘われてしまう。
川崎学園歴も40年を過ぎ,そうかと云って常に松島の地で蠢いていた自分には,母校の現実と関わる人々の思惑を垣間見るにつけ,薄れていく母校愛というより,そんなものはいざ振り返ると一度も確固たる意識として抱いたこともなかったのかも知れないと,これまで同窓会の副会長という要職を受諾していたこと自体に,羞恥より混乱より,甚だいい加減な自らを隠蔽してしまいたい欲望に駆られてしまう。
幸いにも2012年度から同窓会は新体制! 自省から襟を正して活動に従事するよりも,粛々と退く機会に巡り合えたことを僥倖と覚え,本当はこのような退任の挨拶もないままに消え去ることが最適であるにも関わらず,それでも依頼を受ければキーをたたいてしまうことに,新たな嘆息を積み重ねている。
未曾有の天災と,社会や政治の仕組みも含めた人災と呼ぶべきであろう原発事故に曝された2011年に,新たにした想いや,見つめなおし考え直した人生を,継続して強固としていくべき新たな年ではあるが,いや,ならばこそ,このような要職からは外れていき,狭かろうが矮小であろうが只管に内観に近く自らを見つめていく月日への憧憬を具現化していくのも,また生き方なのかも知れない。
それでも歩んでいく残された人生で,心を穢す個々の記憶を精一杯磨き上げ,能うる限り曇りを落としていくことで,ざわめく気持ちの揺らぎが少しでも平坦になればと,倹しい日常を夢想するばかりである。
川崎医科大学同窓会に誉あれ!
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